ノルウェー・スバルバル諸島・スピッツベルゲン島

『極北の島から』 マイナス30度、北緯79度での挑戦

 東京成田国際空港を離陸し、天売島上空を経由しながら飛行機は一路、ヨーロッパの北欧へ……。そして、3日目にようやく着くことができた北極点に近い島、スピッツベルゲン島。09年3月22日のことでした。
 知床の流氷とともに、そこで誕生するアザラシの赤ちゃんを取材し続けてきた私は、流氷が衰退していく姿を目の当たりにしていました。地球温暖化の現れの一端であるとしたら、その影響が最も顕著に現れるとされる北極圏、そしてホッキョクグマへの影響は……と気になりだしたのです。そして私は、北極圏を訪ねる計画に着手しました。

(2009年5月19日から北海道新聞夕刊文化面に掲載)

『極北の島で』 第1回

2000人の町にホテル、大学


夕暮れのロングヤービーエンの町。スバールバル諸島最大のスピッツベルゲン島西海岸に面している 機中から、白く輝く険しい山並みが、前方の雲上に見えた。着陸態勢に入った飛行機は雲に突入し、次に視界が開けたときには、すぐ下に海氷の海が迫っていた。ほぼ満席の200人を乗せた飛行機が、雪煙を上げて滑走路に滑り込む。
 到着したのは、スカンジナビア半島から北へ1000キロ離れた、ノルウェー・スピッツベルゲン島の町、ロングヤービーエン。スバルバル諸島の北緯79度にあり、約2000人が住む。地球最北の人間の定住地だ。
 私が訪ねた3月は、最も気温が下がるとき。地球温暖化やオホーツクの流氷の縮小が叫ばれるいま、地球本来の寒さを体験しておきたかった。
 着陸時にちらついていた雪が夕方には晴れ、にわかに青空となる。町に出ていた私は、気温の急降下を感じていた。厳選して持ち込んだ防寒着や帽子を身に着けていたが、直接外気に触れる頬や鼻がぴりぴり痛くなる。マイナス30度近くまで下がっているのだろう。
 町の中心部にあるスーパーマーケットは人でにぎわっていた。物価は日本の約1.5倍。消費税が25パーセントであることに驚く。それでも大きな買い物かごには商品が一杯で、人々の購買意欲は旺盛だ。
 近くには数件の高級ホテル、建て替えられたばかりの博物館、国際色豊かなスバルバル大学。そして、スーパーを囲むように、たくさんの住宅が軒を連ねていた。この町の持つ機能は、人口2000人の極北の離島とは到底思えないものだった。

第2回

ホッキョクグマの姿求めて

東海岸の凍てつく海面と氷河。この場所の近くにベースキャンプとなるテントを張った この旅の目的は、ホッキョクグマの気配を感じることも含めていた。スノーモービルで100キロ移動し、8日間のキャンプをする予定だ。ホッキョクグマが多いとされるスバルバル諸島のなかでも、密度の濃い東海岸まで行くのだ。
 出発の朝の気温はマイナス30度。快晴で、昼近くなっても気温が上がらない。私とガイドを務めるヨンのスノーモービルは、ガソリン缶、食料、テントなどを満載したソリを一台ずつ引いて、ロングヤービーエンを出発。
 目だけを出した毛糸の帽子の上にヘルメットをかぶり、走行跡が多数残る白銀の丘を疾走する。途中、多くのスノーモービルとすれ違い、犬ぞりの一行をも追い越す。昼間がどんどん長くなる3月からは、北極圏の雪と氷を楽しむ多くの人たちが訪れるのだ。
 「あそこに見えるのが東海岸だ」。
 ヨンが停まって指さした。3時間ぐらいも走っただろうか。ようやく近づいた目的地は、陸と海の境目が分からない。海岸線に到達してからは、雪上に新しい走行跡を刻みながら進んだ。そのとき、一筋の足跡を発見する。
 「母グマと一頭の子グマのものだ」。
 足の大きさなどからヨンが判断した。すべてが凍りつく酷寒の世界のどこに、巨大な生物を支える豊かさがあるのだろうか。
 設営したテントの周りに、引っ掛けると火薬が爆発するクマよけのワイヤーを回すことを、ヨンは忘れなかった。

第3回

歩いたばかりの足跡発見


フィヨルドの奥の凍った海面に残された、気配を感じるようなホッキョクグマの足跡 私たちは猛吹雪に見舞われた。天候が急変したのは、ガソリン補給のため東海岸から町への移動中。白一色で何も見えないなか、ただ一点、先を走るヨンの背中を見つめて追いかける。吹きだまり、そして小さな岩に突っ込んで二度も転倒。ヨンの家に着いたとき、力が抜けた。北極圏の荒い気象の前に、人間はなす術を持たない。
 天気が回復したのはその3日後。東海岸へ戻ってみると、テントは跡形もなかった。埋もれたり散らばったりしたものを回収してヨンの家に戻る。ベースキャンプは結局、ヨンの家となった。
 残り2日となった取材。50キロ離れたフィヨルドを行き先に選ぶ。そこにもホッキョクグマが時々出るらしい。
 フィヨルド内の海面は氷で閉ざされていた。そこをスノーモービルで走っていて、氷上の黒い点がこつ然と消えることに気づく。正体はアザラシ。寝そべっていたやつが、穴から海に入るのだ。穴は、息つぎや上陸のために開けたもの。ホッキョクグマはそこで待ち伏せし、アザラシを捕らえるという。巨大な命を支える仕組みが存在したのだ。
 私たちはついに、歩いたばかりのホッキョクグマの足跡に出会う。すぐそばにいる気配に緊張が走る。が、見つけることができない。
 次の日も訪れ、氷上をくまなく走り回る。
 「ホッキョクグマはいない。あるのはキツネの足跡ばかりだ」。
 ヨンはそう言って首を横に振った。

第4回

ひたすら熟睡 幼い「王者」


食欲が満たされたのか、熟睡して目覚める気配のないホッキョクグマの子ども「ホッキョクグマだ」。
 ヨンの言葉は最初、冗談かと思った。
 「氷河の前を歩いているのが分かるか?」
 そこまで聞いて、私はすかさず双眼鏡を手に取った。取材の最終日、フィヨルドの最奥地で、幸運にも私たちはホッキョクグマに遭遇した。
 かなり遠くを歩くホッキョクグマは、氷河が大きいせいもあって豆粒にしか見えない。私はその姿を双眼鏡で追った。ホッキョクグマは氷河の端まで行くと、雪のなかに立ち止まった。私とヨンは、スノーモービルで近づいてみる。
 肉眼でもよく見える場所に着いたときには、うつぶせになり眠りはじめていた。雪をかき分けてつくったくぼみに入って。寝ぼけ眼で私たちをちらりと見るが、まったく気に留める様子はない。
 「まだ子どもだ。二歳ぐらいかもしれない。体が小さいだろう」。
 ヨンが私に言った。動き出すのをじっと待つが、目覚める気配はない。
 「たっぷり食べて一度眠りはじめると、一日も二日も起きないことだってあるんだ」とヨン。とうとう私たちの方が根負けし、夕方遅く帰途につくことに……。
 厳寒のなかで逞しく生きる極北の王者。この命を支える力がこの島にあると思うと、私の胸は熱くなった。
 地球という星が持つ「寒さ」という多様性の一ページ。それは何とすばらしいことか。(おわり)