オランウータンの橋 〜ボルネオからの報告〜
東南アジア・ボルネオ島のマレーシア領。日本も大量に輸入しているパーム油を採る油ヤシのプランテーション開発で、熱帯雨林が縮小し、オランウータンやアジアゾウが絶滅の危機に瀕しているという。2008年4月、同島のサバ州を訪れ、現地で進められるオランウータンなどの保護活動に同行した。野生生物の実態、活動の様子を報告する。(2008年7月 北海道新聞で連載)
第1回
開発で分断された熱帯雨林
滑走路に滑り込む機中から、異様に赤黒く染まった入道雲が見えた。夕方にスコールがあったようで、滑走路はずぶぬれだ。
コタキナバル国際空港で、私を出迎えてくれたのは坪内俊憲さん。ボルネオ島のオランウータンを絶滅から救うため情熱を燃やす。
旭山動物園のオランウータン館で、生後半年の弟の面倒をみる5歳の姉のモモ オランウータンは、東南アジアのボルネオ島とスマトラ島にのみ生息し、アフリカのゴリラやチンパンジーとともに、最もヒトに近い類人猿とされる。マレー語でオランウータンは「森の人」。一生を森で過ごすのだ。以前、動物園で観察したとき、穏やかな物腰や思慮深いしぐさにヒトの雰囲気を感じた。
この動物の危機を知ったのは旭山動物園。坂東副園長と、旭山の母子の話をしているとき、彼が切り出した。
「実はオランウータンを絶滅に追い込んでいるのは、我々日本人なんですよ」。
ピンとこない私をよそに彼は続けた。
「ボルネオの森は油ヤシのプランテーションとして切り開かれ、その実からとれるパーム油を日本が大量に輸入しているんです」。
吊り橋の図面を見ながら議論する坪内さん(左)と黒鳥さん(左)、水品さん パーム油は、ありとあらゆる食品や洗剤などに含まれ、私たちはそれを日常的に消費しているというのだ。それを聞いて愕然とした。
「どれほどの人がその事実を知っているのか。たくさんの人が知るべきだ。いや、私が知らせなくては…」。
そんな思いが私をこの島へと駆り立てた。
同じ便で、二人が坪内さんのもとに集った。多摩動物公園の黒鳥英俊さん、市川市動植物園の水品繁和さんだ。二人ともオランウータンの飼育歴が長く、その技術と経験を生かすためにやってきた。
「オランウータンブリッジ」。熱帯多雨林のジャングルは、拡大するプランテーションと蛇行する川で小さく分断された。そこで川に橋を架け、ジャングルをつなぎ、閉じ込められたオランウータンの行動域を広げようというのだ。橋は、役目を終えた消防ホースでつくる。大阪の消防署が提供してくれた。
坪内さんのアパートに一行が到着するや否や、二人が描いてきた図面をもとに議論がはじまった。
第2回
緑の回廊目指しトラスト
「ツバメは年6回も産卵するし、エビも何回も繁殖する。ここは夏しかないからね」。
ボルネオ島に入って二日目の早朝。坪内さんはハンドルを握りながら気さくに話した。赤道直下のこの島の気温は、25〜30度ちょっとで一日が推移し、年中ほぼ一定だという。
車は渋滞気味の道路をようやく抜けて、市街地に隣接するリゾート地のような敷地に入った。そこにあったのは、宿泊施設と会議場を兼ね備えた立派な建物。会議場へと向かう坪内さんを追った。
「パーム油の持続的利用のための国際会議」。会議の名称を直訳するとそうなった。坪内さんは前日のゲスト発表者、展示ブースの出展者として参加していた。
まだ8時前。閑散とする展示ブースを一回りする。日本企業も名を連ねる展示のうち最も目を引いたのは、パーム油を利用した商品を陳列したコーナーだった。棚には食用油、菓子類、洗剤、化粧品、シャンプーなどが並び、パーム油の暮らしへの浸透ぶりが一目瞭然だった。
ボルネオ保全トラストのブースへ訪れた人に応対する坪内さん(右から2人目) 坪内さんが立っていたのは「ボルネオ保全トラスト」のブース。彼が中心メンバーの一人となり立ち上げたNGOで、サバ州野生生物局や企業の支援などで運営している。
「ジャングルを分断している農地を買い上げてつなぎ、緑の回廊をつくることが一番の目標。でも、時間がかかり、オランウータンはだめかもしれない」。
坪内さんはちらっと不安を漏らす。莫大な資金と、土地には植林も必要だ。
「今回、川に架ける橋をもしオランウータンが渡ってくれれば、少しでも絶滅までの時間を稼げるでしょ」。
坪内さんはトラストの事業責任者。彼の手腕と行動力に、オランウータンの未来がかかっているのだ。
トラストのブースに、現地採用のスタッフがやってきた。私たちは挨拶をすませ、坪内さんとともに次の訪問場所に向かう。今日は、関係機関への挨拶回りが主な仕事だ。
第3回
銃で追われ 子ゾウの心に傷
サバ州野生生物局へ挨拶をすませた私たちは、コタキナバル市郊外にあるロッカウェイ動物園へと向かった。サバ州野生生物局が運営し、開園したばかりの州内初の動物園で、なおも整備が進む。
黒鳥さんと水品さんが、オランウータンの飼育技術をスタッフに指導した後、園内の見学となった。
敷地内の奥へ行くほどジャングルの緑が色濃く、そんな環境に溶け込むように、ボルネオ島に棲む動物たちが展示されていた。
私はゾウを見て間もなく、その姿に引き込まれた。大人から子どもまで8頭が同じ場所で飼育され、伸び伸びとストレスなく過ごしているのが見て取れた。心地よさそうに水浴びしたり、小走りで追いかけ合ったり、その行動はジャングルでの姿を想像させる。黒鳥さんと水品さんも強い印象を受けたようだ。
「まわりの環境がいいせいですかねえ」。
私の問いに坪内さんはこう答えた。
「飼育する人だよ。必要なものを与え、余分なものは与えない。そんな手を抜かない飼育ができるジェイビーがすばらしいんだ」。
子ゾウのバガハ(左)とヤピ(右)の面倒をみるジェイビー そのジェイビーが、私たちを飼育舎の裏側へと招き入れた。そこで対面したのは2頭の子ゾウ。5歳のバガハは2歳のときプランテーションで、4歳のヤピは1歳のとき伐採現場で保護された。ゾウの群が孤立するジャングルを行き来するには、農地などを通るしかない。油ヤシの実や葉を食べるゾウは、厄介者として人間に銃を向けられ、追い立てられる。小柄なヤピが、食べては吐いてを繰り返すのは、目の前で悲惨な場面を見たショックだと坪内さんは推測する。
「親はすべて殺されたんだろう。ここがゾウの難民収容所にならなきゃいいけれど…」。
惨状を嫌なほど見てきた坪内さんのささやきが、私の心に突き刺さった。私たちの消費が追い込んでいたのは、オランウータンだけではなかった。バガハとヤピの小さくて悲しそうな目が、いつまでも頭から離れなかった。
第4回
森に帰れない孤児
離陸してすぐ、飛行機は東南アジア最高峰のキナバル山(4095m)を横切り、私は眼下に広がる風景に注目した。ジャングルの規模を空から確かめたかったのだ。
ボルネオに入って3日目。朝7時発の飛行機で、いよいよ橋を架ける現場へ…。その入口となる町、サンダカンを目指していた。
緑の山岳は平地となり、うねる茶色い川が現れる。周囲に目を凝らすと、単一な樹木が規則的に並ぶ一帯がある。油ヤシのプランテーションだ。赤茶色の地肌が露出するのは伐採現場。ジャングルは川沿いの一部にしか見られない。私たちの暮らしがそうさせたかと思うと心が曇った。
サンダカンに着いて、坪内さんらと真っ先に向かったのはセピロック・オランウータン保護センター。収容したオランウータンを、ロープで森へ帰す訓練をしていて、橋を架けるヒントの収集が目的だ。
母親を知らないロザリンダは人間だけに育てられた。「いつも悲しい目をしている」と坪内さんは言う そこで目を奪われたのは、ゲージに入れられた何頭ものオランウータン。すべてが親とはぐれたり、親を殺されたりした孤児だという。子連れの母親は、子を守ろうと人間に抵抗する。その結果、伐採現場やプランテーションで殺されるのだ。
樹上からスルスルッと下りてきた一頭がいた。メスのロザリンダ、6歳。母親はここでリハビリされて森へ帰った孤児だった。妊娠してから精神が不安定で、出産と同時に死んでしまう。だからロザリンダは母親を知らない。
「いつもここへ来ると寄ってきてくれるので、彼女の幸せとは何かを考えるようになった」と坪内さん。木登りをがんばって覚え、5歳になった2007年、森に帰された。しかし、まだ森で寝ることを心地よく思わず、ゲージに戻ってきて固い床で寝るという。
「お母さんを知らない知能のある動物を、野生に帰すのは無理だ。森さえあれば、ここは必要なくなるのに…」。
坪内さんの切なる願いとロザリンダの瞳が、私の心の中で重なった。
目的地のスカウ村までの移動中、油ヤシが囲む道路で、その果実を満載した大型トラックと何台もすれ違う。
「もう取り返しのつかないところにきているのでは…」。そう私は思いはじめていた。
第5回
炎天下、心ひとつに作業
スカウ村は、キナバタンガン川のほとりにある小さな集落だった。私たちが泊まるのは林のなかの質素なロッジ。ところが、少し離れた一角に、村の家並みとは違和感が際立つ高級リゾートがあった。
「ジャングルを切り開いて建てたのさ」と坪内さんが皮肉る。野生動物を見に来た欧米や日本などからの外国人が主に利用する。
ここのエコツアーの現実はむなしかった。広がる油ヤシのプランテーションは、ジャングルを川沿いに孤立させた。その結果、追い込まれた動物たちが見やすくなり、それが人を呼んだ。森で暮らし、水を恐れて川を渡れないオランウータンは閉じ込められ、絶滅の危機が深まった。
そんな現状を打破するのが「オランウータンブリッジ」だ。消防ホースの吊り橋を川に架け、ジャングルをつなぐ。そのために坪内さんらはここへ来た。
村人や旅行者も加わって始まった吊り橋づくり。炎天下、半日で組み上がった 村に着いてまず38本のホースの到着を確認。それから川の支流の現場を下見する。作業は実質2日間。日本から招いた黒鳥さんと水品さんの帰国の日程は決まっていた。
一日目、朝7時から近くの広場で仕事開始。坪内さんが指揮をとり、黒鳥さんと水品さんが技術面をリードする。声をかけられた若い村人たち、宿で一緒のオランダ人と日本人旅行者も仕事に加わった。
約20メートルの川幅に合わせて、まず骨組みとなる消防ホースが伸ばされた。作業効率を上げるため、分業して各々の責任を明らかにした。太陽が怖いほど照りつけ、そのうち汗も落ちなくなる。水を飲むと、すぐに汗となって吹き出した。
「がんばろうね。これでオランウータンが助かるんだから」。
誰かがそう言った。みんな同じ思いだった。
途中、電動ドリルが止まり、坪内さんが青ざめる。ホースに穴が空かなければ作業は進まない。そのとき村の若者が動いた。村の大工さんから一台を探し当て、借りることができた。思考や動作が鈍る炎天下、吊り橋が組み上がったのは正午だった。
昼食後、全員に精気が戻る。橋を直ちにボートに乗せて現場へ…。あとは川の両岸の樹木に架ければよい。
第6回
2日で完成 奇跡の作業
オランウータンに川を渡ってもらう試みは、3年前にはじまった。でも渡ってはくれない。
「ロープとロープが離れるような経験を一度味わうと、恐怖心から渡らなくなる」。
黒鳥さんは、飼育経験からそう話す。水品さんのオランウータンの性格分析はこうだ。
「渡る努力をする前に、渡れるかどうかを事前に判断する」。
架かったばかりの吊り橋の下で歓喜の記念撮影 二人は「今回は橋を渡らせることが第一」と考え、オランウータンが「これなら安全に渡れる」と思う吊り橋を図面にした。つまり、渡るためのプラス要素を可能な限り盛り込んだのだ。しかし、材料のホースは38本。その上、重くなればなるほど支える樹木に負荷がかかるので、無駄のない効果的な橋が求められた。
そしてできたのは幅80センチ、高さ150センチの吊り橋。坪内さんが一番渡らせたいと考える「妊娠適齢期のメス」の体型に合わせた。ロープの間隔が開かず、かつオランウータンがつかみやすいよう工夫した。
吊り橋はキナバタンガン川の支流にボートで運び込まれ、まず一方の河岸の樹木に固定する作業からはじまった。そこで不手際が発覚。たたんで積んだはずの吊り橋が絡まり、狭いボート上で解きほぐすのに3時間も費やした。初日の作業はそこまでとなる。
二日目、固定した樹木が倒れやすいことが分かり、まわりの樹木に張りをとるなどの想定外の作業となる。高温、多湿、そして真昼のスコールに見舞われ、陽気だった誰もが無口になった。幸いにもスコールは短時間で上がり、用意した弁当を食べて気を取り直す。ようやく作業は対岸へ…。
徐々に見えてくる橋の姿。橋をピンと張るため、引っぱるロープにも力がこもる。そして夕方遅く、橋が架かった。樹上で常に作業の先頭に立っていた青年が渡って見せた。
「オランウータンが渡ったぞ!」との誰かの叫び声に大笑い。
みんなの心が形になった。誰もがはじめての仕事なのに、二日間で橋が架かったのは奇跡だった。
第7回
早くも次の候補地へ
吊り橋をかける次の候補地は川幅40m。片方の川岸からジャングルが消えていた 橋が無事に架かった夜、ボルネオ保全トラストの面々がロッジでミーティングを開いた。トラストの代表で、イタリア人女性のイザベラ博士が切り出した。
「明日の朝、見てほしい場所があるの。次に橋を架ける場所よ」。
テーブルを囲んだ誰もが、予期しない言葉に耳を疑った。
翌朝6時、疾走するボートには坪内さん、この日帰国の途に着く黒鳥さんと水品さんらが乗り込んでいた。
ボートはキナバタンガン川の支流へと入るが、川幅はそこそこの広さのままだ。さらに進むと、川岸の一方のジャングルが突如として途切れ、油ヤシのプランテーションとなる。この地の現実を改めて思い知る。
40メートルある川幅は、吊り橋の軽量化や形状の改良を必要とする。それをしなければオランウータンはここからやがて消える。
「条件は厳しいが、やるしかない」。
現状を見た誰もが固く決意したに違いない。
その後の数日間、私は坪内さんとともに野生のオランウータンを探した。
熟したイチジクの実を口に運ぶ成熟したオスのオランウータン 「こんなに見られるのは珍しいよ。こうして人目につくこと自体、異常なことなんだ」。
坪内さんが驚くぐらい、毎日観察できた。群をつくらずに、本来は深いジャングルで暮らすオランウータン。その窮状は、インドネシア側ではもっと厳しいという。
「吊り橋でオランウータンが救えるとは限らない。でも、僕らの活動を知ってくれれば、人はきっと変わってくれる。日常生活で何を選び、どう使うかを考えてくれるでしょう」。
地球を救うのは結局、一人一人の小さな心の変化だと考えている。
「オランウータンブリッジは、単に一種の動物を救うのではなく、私たちの命を未来へと渡す架け橋だ」。
坪内さんの確信は揺るぎない。オランウータン、熱帯多雨林のジャングル、そして地球というひとつの星の生命を見据え、坪内さんは今日も日本とボルネオを飛び回っている。