ノルウェー北極圏・スバルバル諸島をめぐるヨットの探検

ホッキョクグマの聖地をゆく!

 2011年6月19日、北極点まで1000キロ足らずの島から出港したヨットは、探検隊員8名を乗せて北へ向かって航行しはじめた。4週間の航海中、驚くような光景に連続して出会うことに……。

(2011年9月5日から北海道新聞夕刊文化面に掲載)

1.沈まぬ太陽

生命の輝き促す輝き

「地球の寒さはどうなっているのか」。オホーツクの流氷の衰退ぶりから、そんな強い懸念を抱いていた。そして、3年越しの計画を決行することになった。旭川の絵本作家・あべ弘士さんら7人と4週間、北極を巡るのだ。その名も「こんちき号北極探検隊」だ。
 北極海のヨーロッパ側に浮かぶスバールバル諸島。6月19日、北緯78度にある島の拠点の町から出港した。チャーターしたのは長さ20メートルのヨット。ベースキャンプ代わりとして4週間そこで寝食する。北へと進み、ホッキョクグマをはじめとする野生生物、氷河や海氷の状況などをつぶさに記録しようという計画だ。ここ数年で劇変するともいわれる北極。そうなる前に、どうしても見ておきたかった。
フィヨルドの奥に必ず見られた氷河。小さな花が可憐だった ヨットは、フィヨルド内の静かな水面を進んだ。海氷はなく、山肌には奇妙な残雪模様が目立つ。鏡のような入り江に碇を下ろし、1泊目の停泊場所とする。氷河の先端が間近に見えるが、前面の海が結氷していて近づけない。夕食後には、氷上にアザラシが3頭寝そべった。
 午後10時を過ぎても、太陽は目線より少し上でギラギラ輝き、時計回りに移動するだけ。太陽が沈まなくなって、すでに二月だ。
 翌日も快晴のなかヨットは北上。ザックにつけた温度計が13度を指して驚く。途中、狂ったように水面に突き刺さるカモメの群と、そこに浮上する数頭のミンククジラを見た。沈まない太陽が雪と氷の世界を溶かし、生命の躍動を促しはじめていた。

2.つなぐ生命

時間の流れゆっくり

小島で出会った親子。クジラが沈んだ浜辺にも現れ、母グマが潜水をくり返していた 砕けた氷河が浮かぶ静寂の水面にいた。「ピチッ、ピチッ」という明瞭な響きが、そこらじゅうから連続して響いてくる。
 「氷から空気がはじけ出る音さ」と船長のマークが言った。氷河は、幾重にも降り積もった雪が、その重さの圧力で凍ってできる。空気も同時に圧縮されて閉じ込められるのだ。それから数百、数千の年を経て末端に流れつく。凍った当時の地球の手がかりを含んだまま。そして崩落し、氷は水へ、空気は大気へと還っていく。氷河は、寒さがつくった水と空気の超低速の循環だ。
 その二日後、夜の停泊場所にマークが選んだのは、諸島北部の氷河が落ちる海岸だ。ヨットから目と鼻の先の浜辺に悠然と現れたのは、会いたかったホッキョクグマだった。何のためらいもなく海に入ったあと、真っ逆さまに潜りはじめた。数回の潜水で手に入れたのは赤黒い肉片。海に浸かったまま、両手で挟んでむさぼりはじめた。
 「クジラが沈んでいるんだ。2009年9月に寄ったのさ」とマーク。私は耳を疑った。
 「漂着して2年も経って、まだ食べられるのか」。
 ここの海は氷で半年は閉ざされ、夏でも水温はほぼ0度。寒さは腐敗を極度に遅らせ、食べられる期間をも制限するという訳だ。
 北極に流れる時間は、私が知るどこよりもはるかに遅い。物がゆっくり変化するリズムに合わせて、動物たちは命をつないでいる。

3.躍動するもの

聖域に海鳥の大音響

氷山に駆け上るハシブトウミガラス ひとつの到達目標にしていた北緯80度。棚から物が落ちるほどの激浪、そしてみぞれに見舞われながら6月28日に越えた。衛星電話で情報を取るマークは、もう少しで北極を覆う氷の縁にぶつかると言う。事実なら、そこから北へは進めない。氷が少しでも北上するのを待ちつつ、近くの海峡にある海鳥繁殖地を訪ねることにする。近いとはいえ航海は二日がかり。濃淡をくり返す霧のなか、美しい光が差す朝4時の到着を目指し、深夜の航行となる。
言葉を失うほど壮大だったハシブトウミガラスの繁殖地 ふと目覚めたとき、エンジン音が低くなるのを聞いて飛び起きた。防寒着や機材を慌てて整え、外へ飛び出す。目に飛び込んできたのは、見たこともない密度で彼方まで浮かぶ海鳥。次に、宙を飛び交う鳥影の濃さだ。そして、ヨットが寄りつつある壁面を見て愕然とする。霧に煙る数キロ続く断崖には無数の海鳥がへばりつき、糞が高さ200メートルの岩肌を薄ピンクに塗りつぶす。周辺の海に棲むプランクトンの色だ。
「いったいこれは……」。鳥たちの大音響を浴びながら立ち尽くした。
 「これが北極なのか。こんなに命溢れる場所だとは……」。描いていた北極のイメージが、一気に崩壊した。人にとって過酷な極地、知られざる地球の果てで見たのは、圧倒されるほどの命が連鎖し、躍動する聖域だ。
 私はふと思った。この星が無数の命に満ちているのは、こうした営みがあるからだと……。北極の真実を目の当たりにしたら、地球を汚すことなど誰もできない。

4.北緯80度23分

氷の向こう 踊る巨獣

北極に続く流氷帯を悠々と泳ぐセイウチ 探検隊はできるだけ北を目指すべく、いよいよ針路を北へ向けた。できればスバールバル諸島北岸を東へ進み、500頭のセイウチが集まるクビト島へ行きたい。でも、マークは無理だと断言する。もうすぐ北極の氷に阻まれるというのだ。
 セイウチは、その長い牙を装飾品に利用するために捕獲され、諸島周辺では一時数10頭しか見られなくなった。1952年から保護され、今では1000頭以上に回復している。そんな貴重なセイウチが、北上途中のロウ島にいるという情報が入った。
氷の上で昼寝 白い帯を確認したのは、ロウ島西岸を北上中だ。ついに海氷にぶつかったのだ。島の北部まで行くと、細心の注意が必要なほど氷が密になった。私たちの北上はこの先困難だ。期待のセイウチはというと1頭もいない。
 私はヨットの舳先に立った。6日ぶりの陽光は暖かいが、ぶつかる風は冷たい。マークは氷を縫うようにヨットを操り、ゆっくり北上を続けた。ずっと遠くのギザギザ氷のすき間を、双眼鏡で丹念に見ているときだった。氷の向こう側で、黒い影が陽炎のなか上下したように見えた。今度は影が複数見えた。私はセイウチの群と確信し、マークに伝える。距離が徐々に詰まるにつれ、泳ぐセイウチたちの姿が鮮明に迫ってくる。氷だらけの濃紺の海に踊る巨獣。実に美しい。この時間と空気に出会えた至福を思うのだった。
 私たちの最北到達地点、北緯80度23分。7月3日のことだった。

5.変わる環境

地球の資源 次世代へ

草を食みながら小島をさまようホッキョクグマ。温暖化すれば草を主食にできるというのか 帰路の航海中、周囲100メートルほどの小島に、ホッキョクグマを見た。とっくに去った海氷の本体から取り残されたのだろうか。その肉食獣は意外な行動に出た。草の新芽をむしゃむしゃ食いはじめたのだ。温暖化で豊富になる植物を、積極的に取り込もうというのか。
 ある日の午後、巨大な氷河を目の前に、マークが「見ろ」と計器を指差した。画面に映し出された地図に、線として描かれた航跡が、何と内陸へのめり込んでいる。
 「もともとは氷河があって地図は陸扱い。いまは融けて海なのさ」。
 地図は15年前の1996年のもの。たったいま見てきた氷河末端とのずれは1.1キロ。あまりの後退ぶりに温暖化は疑う余地がない。
 旅の最後に、ある海岸に立ち寄った。地図には大小の沼や河川、ホッキョクイワナの生息も記され、興味深かった。ところが上陸してみるとまるで違った。水はほぼ涸れて、重機でえぐったような砂利混じりの地形なのだ。氷河後退による環境変化に違いない。そのとき、植生の乏しい地面で目に留まったのは一株のホッキョクヒナゲシ。急変しはじめた環境下でも健気に花を咲かせている。地球は常に生きる方向へ動いているのだと思った。
ホッキョクヒナゲシ。地球は生きる方向へ動いている 「温暖化が人間の仕業かいまは分からない。でも、地球の資源を次の世代へつないでいくことは、時代がどうあろうと変わらない」。
 旅の途中で会った初老のドイツ人研究者が言った。雪と氷で8ヶ月も孤立しながら、CO2の調査を続けている。そんな彼の言葉は重かった。(おわり)